ホントにホント

映画や本、アニメ、音楽など筆者の趣味にまつわるレビューを綴るブログです。

知らんがな、という可能性

中学1年生になると、新たに英語の授業が加わった。当時の小学校には英語の授業がなかったため、それまでローマ字しか学んでこなかった私は、初めて出会う「スペル」というものに頭を抱えていた。appleがなぜアップルとして認知されているのか、chocolateのような歪で整然としない英語の羅列がなぜチョコレートとして当たり前に教科書に載っているのか。じゃあ私が見てきたappuruやcyokore-toとは一体なんだったのか。理解出来なかった。

 

親や姉に問うたところ、ローマ字はアルファベットを使って日本語の表記をするためのもの。一方で英語はもともと外国の「言葉」。なので、書き方も外国の人が決めたもの。外国の人が日本語を覚えるのと同じで、私たちはそれを素直に覚えるしかない。と教えてくれた。

 

こうして聞くとするりと飲み込めそうであるが、13歳の私にはなぜか理解が及ばず、駄々をこねまくったのを覚えている。いや、本当は分かっていた。手段と言語の違いなのだと。私が英語に対しアレルギーを持っていたのは異国の言語という新しい文化=得体のしれないものに怯えまくっていたからなのかもしれない。

 

かくして少年は歳をとり、高校に進学する。その頃には一丁前に洋楽を口ずさむような、こまっしゃくれたガキへと成長していた。親や姉の教えと、中学3年間の義務教育期間により、すっかり英語に対するアレルギーを解かれた私は、積極的に耳から英語を摂取するようになる。

おーゆにーでぃーずらー、と高らかに愛を歌ってみたりもした。意味はわからずとも、英語を発することがとても心地良かった。それに、今まで全く関わることなく、非日常の象徴のようだった異国の人も、同じ人間なのだと思えたことがとても嬉しかったのだ。

 

音楽は今でも私の支えであり、友であり、先生である。詩に込められたメッセージを汲み取り自分のものとしていく。当時は理解しえなかった「英語」の詩すら今では自分の世界を広げてくれる先生であり、仲間の紡いだ言葉なのだ。

 

自分の範疇の外にあるものには到底理解が及ばない。と、いうより理解しようと歩み寄ろうとしないのが人間らしい。ただ、自分という世界はあまりにも小さくちっぽけなもので、つまらない。

そんなつまらない自分を豊かにしてくれるのは、まだ出会ったことのない、いや自分が出会うことを避けてきた先生たちなのだ。

 

 

なんて思ったりするわけです。